トイチ
『トイチ』は子供が好きだった。
小学校の運動会を知らせる花火が澄んだ空に鳴り響くと、彼は決まって山の麓の家からお気に入りの黒い長靴を引きずり下りて来た。
「ひとぉーつ、ふたぁーつ、みぃーつ・・・」
赤と白の玉が空高く投げ上げられる。
トイチは口を尖らせ、身を乗り出すようにして、その玉の軌跡を目で追う。いびつに曲がった片足、浅黒い顔と奇妙な形で突き出している二本の前歯・・・
「赤の勝ちでーす!」
メガホンからの声に、大きな拍手と子供達の金属的な歓声が沸き上がる。
ジリジリと肌を焦がす炎天下のグランド。 ゆらめく陽炎の中で、玉入れの競技が終わった。
遠くで正午を告げるサイレンが聞こえ、アナウンスが子供達にお昼の休憩を知らせると、彼らは蜘蛛の子を散らしたようにテントの中から飛び出し、ポプラの木陰で弁当を広げる親たちの元へと駆け出して行った。
トイチは一人グランドの片隅、真っ白な日差しと、むせ返る熱風の中、腕を組み、ただじっと立ち尽くしている。
薄汚れた開襟シャツ、ひざが抜けたズボン、曲がった片足を補うためか、上体を不自然な形にねじ曲げながら、トイチはただじっと立ち尽くしている。
子供達のいなくなったテントには、親の来ていない数人の子供だけが寂しい黒い小さな影となって残されている。
浮かれ騒ぎに高揚した人々の目には、そんな彼らの姿は映らない。
私はそっとテントに近づく。 そして、その中に同じクラスの友の姿を見つけた。
彼は早くに母親を病気で亡くしていた。
普段は人一倍陽気な彼も、仲間のいないテントの中では、ただのちっぽけな影の一つだ。
子供達は何故か寄り添うこともせず、それぞれのリュックから弁当を取り出す。
どの子の後ろ姿も同じように見えた。 同じように色あせて、くすんで見えた・・・
友はこっそりと自分のリュックを開け、大きな新聞紙のかたまりを取り出すと、おもむろにその包みを開いた。
中からは明らかに自分の手で握られたと思われる大きな『おにぎり』が出て来た。
その時、私は気づいていた。トイチが彼らを見ていたことを・・・
母親の呼ぶ声に振り向くと、遠くシラカバの木の下で家族が私を手招いていた。
私は急いで家族の元に駆け寄った。
芝生の上に色とりどりの御馳走が並べられている。
父親は姉をひざの上に抱き、隣に座る親戚のおじさんに自分の娘の足の速さをしきりに自慢している。
私は大きな卵焼きを口いっぱいに詰め込んで、精一杯の愛想笑いを浮かべた。
30分もすると、満腹になった子供達はじっとしていることが出来ずに、グランドの脇に建てられたいくつかの出店の前に集まり始めた。
私もその中の一人に混じり、親からもらった30円を握り締め、アイスキャンデーを売る出店に向かって駆け出した。
その時だった。 私はテントの中で3人の子供に囲まれたトイチの姿を見つけた。
私は足を止め、ゆっくりと彼らのテントに歩み寄って行った。
それは優しい光景だった・・・
彼らは何も語らず、ただ静かに過ぎ行く時を見つめていた。
彼らの中に入って行けないことは自覚していた。
それでも私は彼らと一緒にいたかった。
彼らを包む優しい空気の中で、いつまでも静かに寄り添っていたかった。
「オイ、見てみろよ。トイチが俺たちのテントに上がり込んでるぞ」
私の背後で声がした。
「ヤダー。何よ、あの人。コワーイ!」
「おーい、トイチがいるぞー!」
気が付くと私の周囲には、既に数人の子供達が集まり始めていた。
「気違いトイチ!お前、何やってんだよ」
「お前なんか山に帰れよ!」
「トイチは帰れ!」
「トイチ!」
「トイチ!」
「トイチ!」
子供達は跳びはねながら、大声ではやし立てた。
トイチは脅え切った目で、おどおどと周囲を見渡した。
狂ったような笑い声がテントを包み込むと、いつの間にかトイチを囲んでいた3人の子供の姿は消えていた。
そしてテントの中には、不安に脅え、立ち上がることも出来ない哀れな男がポツンと一人、取り残されていた。
子供達の狂気は加速度を増し、とうとうその中の一人がトイチに向かって石を投げ付けた。
そして、その石はトイチの鼻に見事に命中した。
私は思わず、その石を投げた子供を睨みつけた。
彼は5年生で見たことのある顔だった。
トイチは鼻を押さえ、言葉を出せぬ者独特のかん高い声を発した。
しかし、その声はとめどなくあふれ出る赤い血にすぐにせき止められた。
流れる鼻血を両手で押さえ、トイチはその場から逃げ出そうと必死で立ち上がった。
その姿に子供達は脅え、叫び声を上げた。
石を投げた子供はグランドに飛び出すと、大袈裟に助けを求めて駆け出した。
トイチは自分が何一つ危害を加えるつもりはないことをその子に伝えようと、必死で少年の後を追った。
長靴を引きずり、大きく身体を左右に揺らしながら、必死で少年の後を追いかけた。
しかし、その時の姿は、誰の目にも彼が少年に襲いかかっているようにしか映らなかった。
大人たちが一斉にトイチに向かって駆け寄って行った。
トイチはあっと言う間に数人の男たちに取り押さえられた。
彼の細い腕はいくつもの屈強な腕によってねじ上げられ、鼻血で染まった彼の顔は焼け付いたグランドの上に力
任せに押し付けられた。
私はすべてを見ていた・・・そして、何もかも知っていた・・・
しかし、私は『何も出来ず』、『何も言えず』、ただ(ちがう! ちがう!)と、心の中で叫び続けていた。
私の目の前をトイチが引きずられて行く。
言葉にならぬ「むーぅ、むーぅ」という悲しい声を上げて・・・
その後、運動会は何事もなかったかのように進められた。
グランドにはトイチの流した赤い血が、小さな黒いシミとなって残っていた。
そして、私の耳に、彼の「むーぅ、むーぅ」という声がいつまでも繰り返し聞こえていた。
その日を境に、トイチの姿は町から消えてしまった。
私は何度か山の麓の彼の家に足を運んだのだが、その度見たのは肩を落として座り込んでいるトイチの年老いた親たちの姿だった。
その後、しばらくして私は母からトイチの消息について聞かされた。
その話によると、彼は遠く離れた病院に強制的に入れられたという事だった。
そして、これも後で分かったことだが、あの石を投げた子供の親は、この町の有力者だったらしい。
もしかすると『町の浄化運動』を口実に、あの子の親が息子の『仇』をそうした形でとったのかも知れない。
加えて、私がその時の母の話の中で驚かされたことがもう一つだけあった。それはトイチの年齢だ。
どう見ても二十歳そこそこにしか見えないあのトイチが、実は33歳にもなっていたというのだ。
そして、あの日から24年が過ぎた今、私は彼と同じ33歳になろうとしている。
脳に障害を宿し、口もきけず、不自由な片足を持つ『トイチ』という男を私は知っている。
山の麓の小さな家で、年老いた両親と静かに暮らしていた『トイチ』という男を私は知っている。
炎天下の日差しの中で、子供達の駆け回る姿を優しく見つめていた『トイチ』という男を私は知っている。
血を流し、引きずられ「むーぅ、むーぅ」と、小さな声で涙を流していた『トイチ』という名の悲しい男を私は知っている。
トイチは子供が好きだった。
トイチは子供が大好きだった。
そして、私は何も言えなかった・・・
そして、私は何も言わなかった・・・
それが19**年、やけに暑かった運動会の日の出来事である。
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